概要
ICPFでは、第19回セミナー(07年6月開催)から3回連続して、著作権制度のあり方について議論を重ねてきました。その集大成として、第5回シンポジウム「デジタルコンテンツの流通を促進する著作権制度のあり方について」を開催致します。
<日時> 9月21日(金)14:00~17:00
<場所> 東洋大学・白山校舎・6号館6204教室
東京都文京区白山5-28-20
キャンパスマップ
<スケジュール>
14:00 開会および問題提起
山田肇(ICPF事務局長・東洋大学教授)
14:10 パネリストによる見解の表明
パネリスト:
岸博幸(慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構
特別研究准教授)
甲野正道(独立行政法人国立美術館本部事務局長兼国立西洋美術館副館長、
文化庁・前著作権課長)
津田大介(IT・音楽ジャーナリスト)
野方英樹(社団法人日本音楽著作権協会企画部部長)
林紘一郎(情報セキュリティ大学院大学副学長)
モデレータ:
山田肇(ICPF事務局長・東洋大学教授)
15:25 休憩
15:40 討論(会場との意見交換を含む)
17:00 閉会
<入場料>
2000円
CNETで紹介されました。
第二部 映像レポート
第一部 レポート
ICPF シンポジウム「デジタルコンテンツの流通を促進する著作権制度のあり方について」
はじめに 山田肇(ICPF 事務局長・東洋大学教授)
ICPF での集中的な議論によってデジタルコンテンツの著作権に関わる問題点が徐々に明らかになってきた。最大の問題は、二種類の著作者がいることに起因する。図に示すように、著作物から経済的な利益を得ているプロと、経済的な利益を期待せず著作物を相互利用しようと考えるアマチュアがいる。これら全ての人が満足する単一のルールは不可能。
そんなプロとアマチュアの著作物がネット上に混在する。このことで、意図しない権利侵害の可能性もありうるし、一方、すべての人が権利を主張するわけでもない。そこに最大の問題がある。
利用者が識別できるようにするには、権利の主張について、ロングテールの右側の著作物にマークをつけて、左側と区別するか、左側にマークをつけて右側と区別するか、という方法が考えられる。コスト負担を考えると左側にマークをつけることが現実的ではないだろうか。
どちらかにマークをつけて、マークをつけないものとの間で著作権の扱いを変える。それが二階建て方式だ。
岸博幸(慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構特別研究准教授)
経済産業省の頃から関わり、竹中大臣の時代にも扱ってきたテーマである。この問題に関しては、関係者の意見が、立場、立場を反映して、かけ離れていると実感している。ネット分野の人々はどんどん流通すべきと指摘している。音楽業界は流通経路として大事と考えているが、着うたについてみても違法サイトはたくさんあり、収入機会を失っているため、被害者意識を持っている。ここが大きな問題で、違法配信の問題等をまず押さえなくてはと、まず市場における保護ありきで、市場展開については身を引き気味だ。
この類の問題における政府の行動原理は軽いもので、流行りものを応援する傾向が強い。政府はネット寄りと感じている。というわけで政府批判になるが、なぜデジタルばかりを推すのか?なぜアナログのことを多く語らない?ということが気にかかる。デジタルばかりを言うというのはバランスがとれた議論に感じられない。
個人的には二階建ての法制度は、問題点をクリアした上でどんどんやった方が良い。そして自分が法律を作った経験からも、法制化はしうると考える。だが、裏返して考えると、二階建て制度を作るとき、本当に法制度化しないと出来ないかは疑問。データベースを機能させれば、法がなくとも出来るかもしれない。法律を作る場合、なぜ敢えて法律にするかを詰めなくてはならないと感じる。
著作権法全体に関わることだが、アーティスト側でビジネスのやり方が一つしかないということが問題だ。利用料を徴収する単一のビジネスモデルが大前提となっている。このあたりは、市場側が変わる余地があるだろう。JASRAC は決して物わかりが悪い人々ばかりではない。新しいコンテンツとビジネスモデルを抑制するインセンティブはないはず。ビジネスモデルなどの慣習を音楽業界から変えていかなくてはならないだろう。
コンテンツ流通を増やす、というのは手段だ。コンテンツ流通を増やすことで目的を達成したい。その目的は、文化の底上げかもしれないし、新規ビジネスを作ること、国民全体の発信力、クリエイティビリティの向上かもしれない。制度は、目的によって異なるはず。政府はデジタルコンテンツの流通を目的化して、その先の議論が欠けているのではないかと思う。
甲野正道(独立行政法人国立美術館本部事務局長兼国立西洋美術館副館長、文化庁・前著作権課長)
自分が初めて二階建て法制度の話を聞いたのは著作権課長の仕事をしてしばらくしてからで、その時は、大学の研究者や公務員、実務家が集まって、デジタルコンテンツの登録法制について一生懸命研究しているというものであった。
山田氏の指摘するロングテールの図で見ると、右(ロングテールの部分)と左(頭の部分)では、利用される著作物の性格が確かに違う。それにも関わらず、現在同様の権利行使を認めているのは、将来的に支障が生じることになるかもしれない。もちろんプロのためには、著作権法だけでなく管理事業法もあり、ヘッドとテールの間には制度としての違いもある。そのような問題意識から二階建てを研究することは当然のことと思う。
こうした研究は、ほとんど公表されることもなく水面下で行われている状況が続いてきたが、昨年の夏頃からぽつぽつと二階建てについての提案が新聞等に掲載されてきたので、私どもも仕事上色々と考えるようになってきた。
そして本年、経済財政諮問会議でもデジタルコンテンツの流通円滑化法制について検討した方がよいのではないかという意見が出て、いわば政府の檜舞台にもこうした議論が登場してきたので、文化庁としてもこの問題は現実の問題として対応しなくてはならない段階までやってきた。
では、二階建て方式について様々な人々が提案しているが、実際そうした制度が出来るかどうか。元役人の視点で指摘すれば、まずは法律にするまでもなく出来る話が多く、わざわざ法律を作る必要性があるのかという問題があるように感じている。
また、権利制限についてはどうであろうか。映画のようなコンテンツに比較して、放送は二次利用をあまり想定していない。二次利用をする際、権利処理が大変ということがある。許諾権の制限については、利用したい人は一定の金銭を支払えばいいというスキームで良いと思うが、複製権や自動公衆送信権等の権利が与えられている場合は、むやみやたらに権利を制限できない。ここに大きな制限を持たせると、国際条約違反になる可能性もあるため、整合性を考えると難しい。
かといって、権利をさほど制限しないとすると、市場において円滑な利用を期待しにくくなり、実質的に機能しないというような二律背反がある。もちろん、国内のコンテンツだけは権利制限を強めて、海外のコンテンツの権利制限を緩めるという方法がないことはないと思うが、現実的でないと思う。
また、デジタルコンテンツに関する特別の救済等についてであるが、仲裁等については、著作権一般についての課題であり、デジタルコンテンツ特有の問題ではない。フェアユースに対する提案も日本の現実に合わないし、現実問題としてもできないだろうと思う。因みに、取り締まり強化や賠償の特例などは、法律は国会で決めるものではあるが、政府部内での検討段階で問題が出されており、実現性には疑問がある。
以上に鑑みると、二階建て方式という構想は発想としては面白いが、なかなか現時点では現実的な法律にまで昇華できないのではないかと感じる。
なお、以上に挙げなかった点で重要な点の一つに、デジタルコンテンツの定義が難しいことがある。映画は、デジタルで撮ってデジタルで出力されるものがある一方で、劇場で上映する時にアナログフィルムにプリントされるものもある。そのような映画はデジタルコンテンツとなるのだろうか、あるいはアナログなのだろうか。テレビ番組でも、放送の方式がアナログ波なのかデジタル波なのかによって、デジタルコンテンツ、アナログコンテンツ、と別々のものと定義されるのだろうか。以上に照らして、デジタルコンテンツを定義することをあきらめ、「商業用のコンテンツ」としたり、「デジタルで利用される場合」などとする方法もないこともないが、これらコンテンツの定義が曖昧であることは確か。
しかし、デジタルコンテンツの流通は早急に対応しなくてはいけない問題だ。優先課題として過去のコンテンツ利用の円滑化は重要であると考える。
例えば、放送番組のデジタル利用に関しては、番組制作に当たって放送事業者に特典が多く、その特典が二次利用を考えないという逆のインセンティブに働くとするならば、見直すべきだろう。また、放送事業者ではない番組制作者が番組を二次利用したい場合において、放送事業者が使わせない、という見方もあるため、番組の管理権の見直しを伴う試みがうまく回ればいいと思う。
津田大介(IT・音楽ジャーナリスト)
コンテンツ全般がアナログからデジタルに移行していると思うが、移行状態がばらばらである。書籍でも色々な形があり、漫画では携帯漫画は伸び率が増えている。新聞に関しては新聞社がWeb サイトをやっているが、過渡期状態といえる。テレビ・映画などでは進んでいないと感じる。
デジタルのメリットは、物理的な流通コストやメディアのコストの低廉化や、蓄積・双方向のコンテンツをオンデマンドで楽しめるなど、コンテンツの利益率が高いこと。コンテンツのコピーが短時間に行える、これは製作者側のメリットでもあるし、ユーザー側のメリットでもある。
個人的には、今までリーチできなかった客層を開拓できる点が強みと思う。漫画を電車で堂々と読みにくい40 代の携帯漫画購入のインセンティブや、アマゾンなどのサイトでアダルトの売り上げが伸びているなど、これらの隠れたメリットがあるように思える。
全般的に見てみると、コンテンツのデジタル化は今後も進んでいくと思われるが、デジタル化のメリットが最大限活かされていないと感じる。多くのコンテンツが、物理的なデジタルメディア、アナログ時代の流通経路など、過去の手法に縛られている。
デジタルの配信を妨げるものは、著作権、DRM の規格が統一されていないこと、レコード会社がコンテンツ配信業者に対して許諾を行わない、など。逆説的だが、日本では携帯電話だけのスタンドアローンで成立する携帯電話カルチャー(市場)が、携帯電話からでなくては利用できないという、歪んだ状況を作っているように思う。携帯電話であれば決済までワンストップで整備されている。だからこそ、コンテンツの価格が実際の価値以上でも売れているように思う。
インターネットにおいてコンテンツの消費性向が強い人は、テレビを利用しなくても情報感度が高いように思う。こうした人々を市場は取り込み切れていない。なぜそうした層がデジタルコンテンツに対して食指が動かないかといえば、魅力的な、合法的なコンテンツが出回っていないからだろう。よって、ほぼイリーガルな存在に手を出すしかなくなっているのが問題だ。ファイル交換があるから合法的なものが流通しないのか、合法的で魅力的なものがないから違法に走るのか、という問題もあると思う。
携帯では価格が高い。音楽で見ても、PC で210 円のものが、音質が悪くなっても420円で売れる。携帯電話で売れるから、売る。利益を最大化するということは企業としては当たり前の行動だが、PC の人からみると、暴利をむさぼっているように見える。そういう状況を客観視して冷めている、サイレントマジョリティが多いのではないか?(DRM などの制約によって)せっかく買ったものを自分のiPod になぜ転送できないのか?などと感じている人は多いと思う。
既存のコンテンツ産業が売れ筋に左右されて空洞化していると感じる。だが、コンテンツに興味を持つマニアックなユーザーほど、自分でメディアに依存せずコンテンツを見つけるようになった。音楽雑誌などは壊滅状態になっている、自分で調べている、となると、ロングテールのマーケットのニーズやYahoo やAmazon の中古市場につながっているように感じる。
コンテンツが流通することは市場の拡大にとっていいことなのか悪いことなのか。コンテンツが多く流れることはいいスパイラルを生むと考える。だが、ニーズが悪いほうに流れれば違法が蔓延し、それを懸念してコンテンツが出なくなる、というのは悪いスパイラルになる。
コンテンツ流通促進については、著作権法を改正する、というアプローチが考えられる。通信扱いの動画配信を放送扱いにするなどの先にあるものは、GYAO などのオンデマンド型をどうするか、という問題。オンデマンドが放送扱いになれば取引コストが下がる。
IT 業者の「権利者がコンテンツをくれない」という主張に対し、権利者側の「お金を持っているのだから自分達で作ればいい」という指摘がある。しかし、放送はブランケットライセンスや放送法、ノウハウの蓄積など、対等ではなく優遇されている状況があるので、フェアな議論に見えない。著作権法の改正だけではなく、隣接権を集中管理する有効な方法があれば、とも思う。
ただし、音楽のように集中管理が向いている世界と、ライターのように原稿料を支払って買い取るという世界が、同じようなスキームでいけるかは難しい。
クリエイティブコモンズや登録制度も重要と感じている。
野方英樹(社団法人日本音楽著作権協会企画部部長)
長い間著作物使用料を頂く立場で、インタラクティブ配信分野の流通ルール作りに積極的に関わってきた。私は、現行著作権法は障害ではないという立場で申し上げたい。デジタル・ネットワーク化された市場はチャンネルが多いのでニーズが多様化している。権利者の立場で考えれば、発表できる場が増えていることは確かで、そこに流通の要請があり、流通することを望んでいることは確かだ。しかし、流通のための流通を望んでいるのではない。流通することでコストを回収し、使用料等の収入を得ることを求めている人々もたくさんいる。
着メロについてみれば、ユーザーのニーズが非常に多く、新たな市場が創出されたことで、利用者も著作者もみな幸せになれたと思う。一方、着うたフルを通じて音楽を買えば、CD を買わなくていい、と感じるようになるかもしれない。そうなるとJASRAC に預ける人々の立場では、同じ市場の中で買う、買わないとなるだけで、市場規模が変わらないか小さくなるに過ぎず、魅力が感じられない。
既存のコンテンツをデジタル化してネットワークで流通させる環境をただ整えただけでは、チャンネルは増えるかもしれないが、魅力あるコンテンツの提供につながるとはいえない。利用者ニーズを見つけるのが大変なので、そこにコストを投じるのが大変だから、という人がいるかもしれない。しかし、それも制度の問題ではなく利害調整等、努力の問題と感じる。
私は、我が国に二階建て方式は既に存在すると思っている。一階部分が著作権法であるとすれば、二階部分は著作権等管理事業法である。この法の下でJASRAC は応諾義務を負っており、利用の申し込みを正当な理由なくして断ることはできない。つまり著作物を流通させたいという要請があれば許諾しなくてはならないということである。こうした制度をもっと活用すれば、コンテンツ流通の促進に役立つのではないか。
もう一点、技術と制度の関係について一言述べておきたい。
例えば、私的録音録画補償金制度の見直しの議論の中で、補償金制度に代わる技術が生まれたのだから、補償金制度はいらない、という指摘があった。しかし、今そのような技術で広く使われているものはどこにもない。そうした技術はユーザーが利用するものなので、社会に受け入れられる技術であるのか、その技術的コストを誰が負担するのかという問題が解決されなければならない。技術を否定するわけではないが、こうした点を考慮せずに、技術があるから制度を変える、という論調が最近多いことに問題を感じる。制度を実現するために技術を活用することが必要である。
これからも現行著作権法は機能し続けるだろう。諸外国との整合性も既に取れており、今後も拠り所になるべきものだ。流通促進でみれば、保護期間中であっても無償利用を認めることはできるし、延長問題については、延長したからといって70 年間使用料を頂き続けることが決まる、という話ではなく、許諾方法や使用料を頂くかどうかについては個々の権利者の意思で決まるものであって、そうした意思表示をデータベースでカバーするようにすれば、延長しても何も問題は起きない。
権利者は自分の権利をしっかり認識して行使し、音楽を使う方もよく理解して契約を結んでいけば、正当な流通は実現する。
林紘一郎(情報セキュリティ大学院大学副学長)
最初に結論を申し上げれば、二階建ては間違っているのでは。デジタルとアナログはデマケーションするしかないのではないかというのが私の意見である。情報を法律でどう扱うか、価値ある情報を法律的に守れるかを研究してきたが、やっとこういうことかな、ということがわかってきた。
専有という概念を用いたとすると、情報は他の人の利用を排除して持ち続けることが難しい。移転すると取り戻しにくく、一物一価というものが定めにくい。こうした情報を法律的に守ることはほぼ不可能。情報窃盗を刑法で規定できるかと言えば、法律をやった人はそんなことは出来ないとすぐ分かる。
今まで守ってきたのは、右側の秘密というグループと、左側の知的財産というグループだけではないか。そこに、安易な形で、個人情報というグループも守ってあげようという暴挙が起きた。
左側の知的財産は公開して守ることが一般的。著作権の登録は必然ではないかと考えている。著作物は言論の自由の発露であり、表現されたものを守るということになっているが、デジタル化すると01 のビット列に他ならない。ビット列を守りたいとなると、元々の無方式主義に限界があるのではないかと思う。
無方式主義は検閲を許さない。出版法規制から逃れて言論の自由が担保され、著作権制度が生きていることを考えると、検閲を避けることが最大の課題。同時に権利の主張にコストを要さないことは言論の自由を間接的に促進させることがある。
デジタルのビット列になった時は、剥き出しのデジタル情報が複製容易で、品質が劣化しない。権利侵害に非常に弱いという意見もある。しかし幸いにして、逆にデジタルであれば個別管理が非常に安価なコストで行えるので、何らかの仕組みが作れるのではないか。
今までの無方式主義は、創作者のリスクとコストを免除するという考え方だった。探索コストや無過失侵害の危険なども含め、色々なリスクがあった時に、それに伴うコスト負担を誰が行っているか?利用者に負担させているだろう。デジタルであれば、このストラクチャを変えて良いのではないか。ただし、依然として検閲に近づく危険があるので、政府はこの取引に無縁であるべきであると考える。
登録することが条約違反というわけではない。アメリカは元々、方式主義の国であり無方式主義に転換してまだ20 年程度。それもあり、アメリカ国内の著作物は登録が訴訟要件になっていると思われるし、登録することに一定のインセンティブを与えていると考える。
我々もデジタルになって権利の所在が不明確になるのであれば、何らかの登録を行うことが良いのではないかと考える。世間に誤解があるのは、登録が不動産の登記のように、全国一律の登記所があり、そこに出向いて登録しなければならないのではないかということ。それもあってもいいとは思うが、そうではなくて、認証局をたて、そこに電子的にデータを送り証書を発行してもらう、自分のサイトにマークを提示する、など、非常に幅広い活用法が出来ると考えた方が良いと思う。
岸さんの言うように、法改正を行わなくても出来ることはやったらいい。ただし、法改正を行った方がもっと色々なことが出来る可能性があるように思われる。その最大の利点は著作権制度の弾力化、特に、著作権の保護期間が超長期なので、これが期間内にもう少し弾力的な運用につながる可能性があるのではないか。
基本形は三つ。認証のない自己登録のD マークやCC。認証付きの自己登録。アメリカの著作権局のような推定項付第三者登録。
権利者を捜しても見つからないという問題では、登録をしてあれば権利者は分かるので、登録していなければ「権利者を捜す相当の努力をした」という要件を満たしたことにして、裁定を出しやすく出来るのではないか。アメリカのように訴訟要件にする方法も考えられる。しかし、アメリカでは平然とやっているが、ベルヌに抵触している可能性も否定できない。
さらに、アメリカの一部の論者が言っているように、逆に著作権保護期間のイニシャルセッティングを短くし、何度でも更新可能な形、現在の商標のような形にする、従って著作権が永遠になることもあるという仕組みを考えてもよい。
私はベルヌ条約に代わるデジタル東京条約というものを作ったらどうかと考える。
私たちのセキュリティの分野では、CIA が基本要素である。コンフィデンシャリティ、インテグリティ、アベイラビリティ。アベイラビリティは、実はデジタルになると、オウセンティスティに変わっていく、つまりデジタルについては、登場人物であれ、保護の客体である情報であれ、それらは何かの形で真正性を証明しなければ、権利の存在証明が非常に不十分にならざるを得ない。