健康 改革を阻む制度の壁:医療におけるネットの活用 大江和彦東京大学大学院教授

概要

情報通信政策フォーラム秋季セミナーシリーズ
『改革を阻む制度の壁』-IEEE TMC Japan Chapter 協賛-
情報社会への移行を阻む大きな障壁の一つが既存の制度です。わが国には情報通信が今のように発展する前に形作られた法律・規則・慣行などの制度が多く残り、それが情報通信技術をフルに活用する社会への転換を阻んでいます。
そこで情報通信政策フォーラム(ICPF)では、『改革を阻む制度の壁』について議論を深めていきたいと考え、この秋冬のセミナーで連続して取り上げることにしました。今回はその3回目です。

<スピーカー>大江和彦氏(東京大学大学院医学系研究科教授)
<モデレーター>山田肇(ICPF事務局長・東洋大学経済学部教授)

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レポート

まえおき
「ネットと医療」というタイトルだが、遠隔医療だけでなく、ITやネットワークと医療の関係について今日は話をする。私は1984年に医学部を卒業、3年ほど外科を担当したが、そのころにコンピュータに触れ医療情報という分野に携わるようになった。
昔と違い病気が多様化してきた。感染症の時代は一息つき、その後出てきたのが癌や、高血圧、糖尿病などの生活習慣病。今は不定心身病状、なんとなくだるい、調子が悪いという状態を抱えている人も増えてきた。高齢化も著しい。ニーズの多様化に対し、医療側が供給できる資源はそれほど増えていない。医師不足の問題がある。医療費は削減しなくてはならないという強い要求がある。

メタボ健診とデータの収集・利用
死因の大半は癌、心疾患、脳血管疾患。病気になってから治療するのでなく、その前から防ぐ予防医療が大切ということで、メタボ健診などが開始された。目標は2015年度までに生活習慣病有病者及び予備群を25%減少させるというもの。
いわゆるメタボ健診という制度は、健診データの共有という観点では一大イベントである。メタボ検診はデータを一元化し、どういったことが起こっているかを把握できる仕組みとなっている。40~74歳の国民は約5700万人、このデータが報告されてきても、ITなしではデータが整理できない。そこで、標準的な電子ファイル形式、全国で同一形式が決められた。
それを用いて、医療の質の向上、医療安全対策の充実、効率的な経営、医療機関の地域連携や役割分担、医療情報の開示、健康・医療・介護への連続的情報活用、などにつなげる、きっかけとして期待している。

病院内のIT化
たとえば東大病院では、糖尿病の飲み薬を出す際に、本当に大丈夫かなどの警告を出すようになっている。こういったことは手書きの処方箋ではできないので、安全対策に貢献している。点滴医薬品も患者ごとにバーコードで照合して取り違えないようにしている。最近では準備時もバーコード確認するようになっている。こういった仕組みは20年ほど前から少しずつ整備されてきている。
オーダリングシステムという言葉がある。お医者さんはさまざまな指示を紙で出していたわけだが、医師自身がコンピュータで入力し、検査結果がコンピュータに戻ってくるようになっている。一方、医師自身が診察した結果の記録、たとえば患者さんへの問診の結果などが、電子カルテに記録される。これですべての情報がネットワークに入り、いつでも必要な時にネットワークを介して必要な情報が手に入ることになる。

生涯にわたる健康記録の保管と活用
カルテは医療機関が5年間管理しなくてはならない。病院を受診すれば、そこでIDが作成され、紙で、あるいは電子カルテならばレコードが作成される。5年経てば小さな病院などは破棄することも多い。
こうした現状では、生涯ひとつながりの医療記録を残しておくということができない。その上、患者は病院間を渡り歩く。だからといって病院間をネットワークをつないだだけではだめだ。5年たって電子カルテから消されてしまうとどうにもならない。どこが保存・管理しておくのか、が大きな問題である。
さらにここはあるITベンダのネットワーク、ここは他のITベンダのネットワーク、ということになると、ネットワークを越えた情報共有が行えないということも起こりうる。
eJAPAN計画とiJAPAN戦略で、長期間預かってくるデータバンクを運営しようということになっている。ただし個人情報なので、患者が自分の責任でデータバンクへ預ける、というもの。
生涯のデータを管理していくというイメージはあっても実際には進んでいない。たとえば緊急時に救急車で患者が運ばれてきた。医師にとってはその患者さんがどのような薬を飲んでいたかなどの情報が欲しい。そこでITということになるのだが、いろいろなアイデアが出てくるわけだが、なかなかうまくいかない。
携帯やICカードに書き込んでおいてもらうというアイデアがある。毎回だれが書き込むか。技術的に標準化されていないと意味がない。技術的に書き込めたとしてそのコストはだれが負担するのか。持っていても持っているかいちいち探せないという問題も。
どこかにデータを預けておくという方法もある。これも個人情報保護の観点で難しい。意識不明の患者が担ぎ込まれたときに本人の同意なしで情報にアクセスしていいのか、こういった問題から先に進めない。
手書きの処方箋が元で飲み合わせの問題が生じるという問題がある。ここでITが応用できないかとなるのだが。そもそも、この薬と薬を飲み合わせたら危険という情報が存在していない。存在しているとしても高い商品(飲み合わせデータベース)として売られていたりする。
国のIT戦略は着実に進んではいるが、医療機関側がメリットに感じる部分が少ない。データを書き込んでおくといっても、よその医療機関が10年に一度使うかもしれないデータを書き込むコストをどこが負担するのか、という問題。現実に目を向けると、コンピュータが入っていない医療機関も非常に多い、診療所は8万あるが、電子カルテを使っているところはその8%ほど。病院が診療所にデータを渡そうとしても紙で渡すしかない。

今後の方向
こうした状況で、今後医療はネットワークをどう利用すべきか。二つ大きな目標がある。まず、医療機関や薬局がデータを気軽にやり取りできるように中継センターが必要だろう。各地域の医療情報のハブとなるセンターを作る。FAXや文章で送ってもセンターで電子化してくれる。もうひとつは、国で共通システムとして集中開発して配布し、診療所や200床以下の病院にソフトウェアパッケージを導入すること。医療側にかけないという仕組みが必要だ。これらを行わなくては今後なかなか進まないだろう。
ヨーロッパの診療所でIT化率が高いのは、まさにこれらをやったから。最初にやったのはオランダ。オランダの通信企業と共同でこれを推し進めた。韓国も例えばレセプトのソフトウェアや画像をやりとりするソフトを韓国の通信事業者KTがほとんど実費に近い価格で配布し、高い普及率となっている。日本は地域で実験的にやるが、予算が切れれば実験も終わり、ということを延々と繰り返している。
また、各病院でひとりひとりにIDを割り当てても、データを連携できない。異なる病院の情報をヒモ付けるためには、なんらかの共通IDの整備が必要。これが実現しない以上、緊急時の対処など怖くて行えない。一方で、生涯型のデータ管理バンクを建てたとしても、個人情報保護とどう折り合うのかについて、法制度で対処しなくてはいけない。
技術的な問題も残されている。電子カルテシステムの標準化。非常に長期のスパンを想定して技術の相互運用性を確保しなくてはならない。新薬、新型インフルエンザなどに、どういう番号を振るかは非常に重要。病名に番号を振ったり、手術にも番号を割り振る必要がある。
私が平成11年に立ち上げたHELICS協議会、ここでは標準化が必要な項目について話し合っている。HELICS指針として標準規格として採択はするが、強制力はない。あっても使わなくてもいい、となると、なかなか利用されない。厚生労働省も今年になってようやく、HELICS指針の中から厚生労働省基準に採択しようとなった。

遠隔医療の現状と課題
遠隔医療は平成9年の厚生労働省医政局通知により、条件付きで認められている。医療といっても助言と指導であり、診療は認められていない。処方箋を出していいのか否かはずっとわからなくて、だれも処方箋を出さずに来ていた。今年から重点点検の専門調査会がスタートし、こうした問題に回答を求めるようにした。処方箋が電子的に発行できたとして、患者さんが電子処方箋を印刷してどこか薬局へ持っていかなくてはならない。このあたりも、オンライの薬局とつながればいいが、ご存じの通り、この辺りは強化される動きとなっており、従来変えたものも買えなくなっている。

匿名データの重要性
もうひとつ大切なのは、匿名化された患者さんの健診データ、これは非常に大きな価値を持っている。企業においての営業的な価値ではない。疫学的なデータベースとしての価値である。こうした点にあまり着目されてこなかった。つまり、各医療機関で得られた医療データを匿名化して、大規模なデータベースとする。たとえばタミフルで異常行動がおこるかいなか、という議論があったが、調べようとすると半年ほど100人くらいに投与して確かめるしかすべがなかったが、こうした仕組みができて解析できるようになると、一瞬にしてわかるようになる。それによって薬の評価、新しい薬の開発、副作用防止のためにすべきことに何があるか、とつなげていける。またある薬を投与して、10年後に副作用が出るかどうか、現在では調べるすべはなかったが、これもできるようになる。
全国規模の悉皆臨床データベースが生まれれば、大変価値のあるものとなる。その予備実験だが、全国の入院患者の2分の1のレセプトデータが厚生科学研究費で集められた。このデータベースで、くも膜下出血の死亡率などがすぐにわかるようになった。早期大腸がんの内視鏡的粘膜切除術では、まれに大腸の粘膜を焼いてお腹に穴が開く。どれくらいの頻度でおこるか、このデータベースがあれば、49097例中51例あるということが、数秒でわかる。

質疑応答

Q:お聞きしたいのは、最後の疫学的なデータベースの話の部分。EBM(Evidence Based Medicine)ジャーナルが廃刊になるなど、日本にデータベースを利用するニーズがあるのか? どのような形でITを活用できていく環境を作っていくか。
A:EBMというのは根拠にもとずく医療、これは日本でも医療者は受け入れている。日常診療で時間のないときに論文検索してその場で医療しようというものではなく、こういうガイドラインで行うのがよいと示されていれば、その通りやるのが普通。EBMは現場では時間の節約につながる。簡単に言うと、EBMの通りにやると9割の人はその手順で済むので楽、という話。導入したいという人も多いと思う。だが実際にはエビデンスが少ない。非常に大きな疫学上のデータベースが必要である。しかしデータベースを作る上でも、個人情報保護法の問題が出てきている。
Q:どこかで急に病気になり、運び込まれた病院で本人の同意がないと情報が参照できないという問題だが。個人情報が保護されて、肝心の個人が保護されない、という矛盾した状況となっている感じがする。そのあたり議論されていないのか?
A:議論はいたるところでされているが結論が出ない。救急の場合、その人間の生命に関する場合、利用する、ということは問題ない。しかし、そのために事前に集めておいていいのか、という部分は結論が出ない。また、個人の救急には重要ではないが、医療機関が必要と思ったときにどうするのか、という問題もある。たとえばHIV感染のキャリアだ、という情報は医療者にとっては非常に重要だが、患者に対する医療行為には直接関係しない。
Q:ITと医療に関しては進めてまずいことはなにもないはず。去年、自身が入院した時、近所の診療所と病院とは電子的に接続されていないし、院内薬局ならば行く前に薬が出ているが、他で買うと待たされる、などの問題も起きた。
A:IT連携のためのコーディネーターがいない。日常診療をしている医師が、外部機関と何かしようという役割を持っていない。それぞれが自分のテリトリーの中でしかやれない、ということが問題と感じる。メディアや一般の方々が声を大きくしていくのが一つのドライブだろうが、そういうことをやっていこうという人がいない。医療情報をやっている人はそういう役割をさせられるが、とても追いつかないし、利害関係者も非常に多い。アメリカなどでは、医療専門のITコーディネーターを大統領が直接置いたりしているが、日本ではまだそういう方がおられない。
Q:もし先生が、政府のコーディネーターになったとしたら、どのあたりから手をつけていくか。
A:医師会を動かさないと動かない。また薬局など周辺の業界をネットワーク化しないと動かないと考えている。局所的にはグルーピングできるが、そのグループを一歩出るとつながらない。
Q:米国などで、ヘルスケアの分野でソーシャルメディアを使った動きがあるが、どう思うか。
A:日本では国民皆保険なので価格が完全に統一されていることが、草の根的な動きを阻害しているのではないか。もう少し柔軟で付加的な料金を取ってもいいのではないか、そうすると安いけれどもお金が徴収できることで、ソーシャルメディアを利用するなど、いろいろなアイデアを出して競争も起きるのではないだろうかと思う。
Q:情報連携の考え方が、米国と欧州では違っている。米国は草の根的なところでやっているし、欧州はきちっときめてやっている。
A:私は欧州型のほうがいいと考える。国民はグレーを望んでいないのに、法律でグレーが多すぎる。ここまでやっていい、やってはだめとはっきり出たほうが、はるかに進むと思う。
Q:癌の病理診断を、ネットを通じて映像で行っている。これらが遠隔の第一段階と考えられるのか?
A:病理診断というのは医療の中ではかなり特殊な位置づけ。癌の診断は病理医が顕微鏡で見て、癌だといわなければ癌とならない。したがってそうしたトレーニングをうけた病理医は限られた場所に限られた数しかいない。だからネットが利用されている。しかし、病理医の数は増えない。また、病理医にメリットは大きくない。なぜか? 診療報酬は、病理診断を依頼した側に入るが、依頼された側はお金をもらえない。契約した相手医療機関側からお金をもらうしかない。事前にすべて契約書を交わして診断するわけで、ポッと見てくれと言われても見られないし、たくさん見たからといって、病理医側にあまりメリットがない。
Q:しかし、そうした分野を少しずつでも増やしていかなくてはならないのでは
A:病理医の数が足りない中で、そうするのか、という問題。需要と供給がバランスしていない問題。使いやすくしても需要だけ増えて、一気にパンクするだろう。たとえば、病理医がいないため、内視鏡で細胞を取らない、という病院はたくさんある。しかし遠隔でみてもらえるとなったら、内視鏡検査で細胞を取っておくればお金をもらえるとなる。しかし病理医の数が増えなければ、一時的には病理医の仕事だけが増える形となる。この需給ギャップがとれるまでに10年、20年かかる。ゆるやかに増やしていくことが必要では。
Q:アメリカに住んでいたときに自分が入っていた保険は10ドル払えば全部やってくれるというものだった。日本で保険会社がやっている保険、あれをもう少し良心的な価格で、経済合理性に基づく形でにしていくのは無理か?
A:個人的にはそういう方向に行くほうがいいと思う。ただ、当然違った見方が当然あって、そういうやり方をすると、受けられる医療サービスの格差が開くことになる。その水準を維持できるのか、ということになる。日本の良さは、弊害もあるが、同じ医療を受けることができる、という点。医療者としては堅持しつつ、幅はあっていいのではないかと思っている。ITの領域でいえば、追加的コストを支払えば電子カルテ情報の取り回しが楽になるなど、受ける手術の内容で差をつけるのではなく、付加的サービス部分での差別化するなど。
Q:診療所がたった8万か所しかないとすると、ソフトを配るといってもたった800億円、政治判断でできそうなことができないのは別に要因がありそうだが
A:こうした議論でよくでてくる反論は、そもそも医療機関にとっては、ソフトは道具でしょ、と。それを国が支給することはあり得ないでしょ、と。
Q:しかし国民が医療費を何兆円と支払っており、疫学的データベースなどの貢献で医療費が減少すれば国民にとってはメリットが大きいはず
A:私もぜひやるべきだと思う。もちろんITなので、一度やっておしまいではなく、4、5年ごとにアップデートなどしてやる必要はあるが、そういう投資の仕方をすべきと思う。
Q:ソフトウェアのパッケージを導入する、という話。Webサービスにしてしまうとどうか。基礎を決めてAPIを公開するなど。
A:議論は出ているが、そのコストはそんなには違わなかったりする。
Q:これからはヘルスシステムとほかのパブリックシステムを一体化していけばいいのではないか。スタンドアローンの医療システムではなく、何かに相乗りする、などのアイデアはないのか。
A:漠然と考えるところはあるが、具体的にこういうものはない。なんとなくそれを阻害している意識、国民なのか、メディアなのか、漠然とした意識なのか。そのあたり、医療だけが特別視されている。
C:イメージとしては電子私書箱に近いのではないか?
Q:そういう広がりを持たせたほうが、国民の理解をいただく上で有効ではないかと感じる。
A:そうだろう。そういう形に持っていかないと成り立たないだろう。

スケジュール

<日時>
12月4日(金曜日)18:30~20:30

<場所>
東洋大学・白山校舎・5201教室(5号館2階)
<資料代>
2000円 ※ICPF会員は無料(会場で入会できます)

<お申し込み受付>
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